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お国なまりを大切に

過去2回分の記事を間を開けずに挙げたのは、実は今日の話題を昔から書きたかったのだけれど難しい問題を含むので
記事を書く前に「前提」を共通認識にしたかったからです

その話題とは

ズッカーマン

violinist.comの記事によると、
ピンカス・ズーカーマンの行為は、クラシック音楽における人種的・文化的ステレオタイプについて、ネット上で激しい論争を引き起こしました。

問題となったイベントは、「Starling-DeLay Symposium」が開催したバーチャル・マスタークラスです。

ズーカーマンは、入学前のニューヨーク生まれの一部アジア系の姉妹にコメントをしました。
シュポーアの「デュオ・コンチェルタンテ」を演奏した後、生徒たちに「もっと楽しんでください」と呼びかけました。

ズーカーマンは
「完璧すぎるくらい完璧な演奏だ。どれだけ完璧に弾くか、どれだけ一緒に弾くかを考えるのではなく、
もっとフレージングを考えるのです。もう少しビネガー......いや、ソイソースをかけてください」

"もっと歌うように、イタリアの序曲のように "と付け加えました。
"バイオリンは弦楽器ではなく、歌う楽器です。
弾き方に疑問があれば、歌うこともある。韓国では歌わないんだけどね」。

彼が詳しく説明した後、姉妹の一人が "でも私は韓国人じゃないわ "と言った。
ズーカーマンが彼女たちの出身地を尋ねると、彼女たちは「日本とのハーフです」と説明した。

続いて、「日本では歌も歌わないんですよ」と切り出した。
続けて、アジア人としてステレオタイプ化されている歌謡曲のボーカルスタイルを真似した。

その後、マスタークラスのQ&Aコーナーで、ズーカーマンは再び
「韓国では、彼らは歌わない。それは彼らのDNAにはない。"



ピンカス・ズーカーマン(ヘブライ語: פנחס צוקרמן‎, ラテン文字転写例: Pinchas Zukerman、1948年7月16日 - )は、イスラエルのテル・アヴィヴ生まれのヴァイオリン奏者



このWikiの紹介の通りスーカーマンはユダヤ系ポーランド人であり、ロマ「東欧州などで遊牧民として暮らしている人々、ジ○シーは差別用語なのでロマの人々の呼び方が適切」の人たちの伝統を継ぐ人なのかも知れません
(祖先や親戚に遊牧民が居られたと言う意味だけでなく、民族学上の系統が近しいと言う意味であっても)


さて、この話題が音楽界を揺らした当時、日本国内ではあまり騒がれなかったと記憶しています、私の耳に届かなかっただけかも知れませんが
その時期を過ぎて、改めて記事にするのです

私の考えでは
ズーカーマンと言うユダヤ系の1人のヴァイオリン教授としては、
自分の生徒さんに
「正確に弾こうとばかり囚われないで、もっと自由に歌って良いんだよ」と教えたのはごく当たり前の行為ですよ


一つだけ彼が犯した問題は「アジア人は・・・」と要らぬセリフを足して発言した事です

もし、日本人の先生が日本人の生徒に、あるいはドイツ人の先生がドイツ人の生徒に

「正確に弾こうとばかり囚われないで、もっと自由に歌って良いんだよ」

と、言ったのならば全く問題にもなっていないのです、演奏上や解釈のヒントを教えただけだからです

背の高い人に「背が高いねえ」
痩せている人に「スリムねえ」
これは差別と受け取られますか?

背の低い人に、ふくよかな人に・・・
受け取る人によっては悪口になるので気をつけるべきですね

背が高い低いは単なる身体的特徴なだけであって、言葉自体にトゲはありません
ふくよかな方を好む人も沢山いるのだから、特徴だけでは悪口にはならないはずですが
受け取る側が嫌だと思えば悪口になるので、避けるが賢明。と言うのが世の習いです



この手の人種問題で注意すべきは

「アジアのヴァイオリン奏者=機械的で正確だけど歌わない」

と、認識しているのは、他ならぬアジア人だから、痛い処を突かれたので怒りを感じるんです


また、少し前にフランス人サッカー選手が日本でホテルマンに差別発言をしたとして騒動になりましたが
植民地政策の後始末も終わっていないフランスでは同じアパートに何カ国もの家族が暮らすのは当然で
そこの子供達はいつも一緒にサッカー遊びをして「人種いじり」は日常なのです


我が家に来たフランス人のお嬢さんが
「サッカーの後アラブ人がシャワーに入ったらちっとも出てこない
おかしいと思って見に行くと、排水口の網の隙間から流されて行ってた、彼らは痩せっぽっちだから」

と言うのが定番の「いじり」だと教えてくれた
しかし、これは「お前のカーチャンでベソ」と同じでお互いにジャレ合っているだけで差別とは別次元だと言うが
長年単一人種に近い島国育ちの日本人からすると、ヒヤヒヤする関係性に見えます


国境が複雑に絡み合い、人種の坩堝にいる欧州人は差別や悪意の意図なく「民族小咄」をする人達なのでしょう
音楽界でもズーカーマンの様な発言はいくらでもあります
ホロヴィッツが
「女性とアジア人にピアノは弾けない」って言ってたらしいし、ともかく外に出るでないは別として彼らの思想的には
コモンなセンスと思っておいた方がこちらが一々傷つかなくて賢明です


問題なのはズーカーマンやR・マドリーに所属する世界的に立場のある人間が発言するのは、路地裏の子供の会話じゃないんだから大きな責任があるのに、その自覚のなさです






僕はねえ、思うんですよ

子供の頃からお寺に行けば日本古来の笙、笛で雅楽を聞いて、夏休みには盆踊りを聞いて育った我々が
この人達と同じ歌心を持っていると考える方が余程無理があるでしょう










ならば
日本人にしか出来ないクラシック演奏を目指せば良いんじゃないかと思います
それなら、ズーカーマンは逆立ちしたって出来んないんだから
もちろん目指すからにはそれでズーカーマン以上の世界的評価を得るしかないんですけれどね
だって、僕らは中島みゆきや八代亜紀で涙出来るじゃないですか、それこそ立派な民族的、音楽的特質ですよ

昨年のW杯でサッカー日本代表はその道に一筋の光を灯してくれました


もう何年も前になりますが
Wienのシュターツオーパーで小沢さんが「E・オネーギン」振ったのを聞きましたが、それはそれは素晴らしい演奏でした
大地に根を張った様ないわゆる「ロシア的」な演奏ではなかったかも知れませんが、繊細でリリカルな悲しみを湛えた見事な「E・オネーギン」でした




最後に
ロマの音楽で最も有名な曲の一つである「チャルダッシュ」を貼っておきます

こちらはハンガリーの有名なベラさんの演奏です
今日の3つの動画はわざと地域や年代の異なるものを集めました
人種や国といった単位を超えて受け継がれる血の伝統の様なものを感じて見るのも悪くないかなと


なお、「チャルダッシュ」は日本のヴァイオリン教室でも異常なほどの人気曲で多くの方が習っていますし
本当に多数の日本人ヴァイオリニストの演奏をyou tube上で見ることができます

ぜひ皆さんも下の動画を見た後に、「チャルダッシュ」で検索して邦人演奏家のものと聴き比べてみてください
私の意図と反して「悪い例」の様に思われると心外なのであえてリンクはしません


両方を聞いてから、もう一度ズーカーマン騒動の本質を考え直してみることもあながち無意味だとは思えませんが
如何でしょうか?

***繰り返しますが、あらゆる差別発言に対しては強く非難いたします***

同様に血の伝統が薄まりゆく事にも少し勿体なさを感じる今日この頃です











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お国言葉の魅力

我が家のピアノのレコードは他のジャンルに比べて極端に少ないとは思いませんが、何故かショパンのレコードは僅かしか所有していません
すぐに思いつくのは以下の2組だけになります

・練習曲  
・プレリュード  

いずれも演奏は アルフレット・コルトー

これらはSP盤のセットもありますので、むしろ入れ込んでいると申せましょう



では、”ショパン苦手”を公言している私が何故そんなにこのレコードだけ聞いているのか?ですが

”コルトー節”がショパンの特質を超えてしまっているから

なのだろうと勝手に思ってます

コルトーの弾くショパンなんてのはなんだか酔っ払いがピアノを弾いている様に聞こえるから、テクニックもピアニズムもあったもんじゃ無い
その上、録り直しの効く電気録音なのにミスタッチだって散見されます

しかし、その奥からは他のどのピアニストでも出せないだろう溢れんばかりの情景やポエムが聞こえるのです

ピアノの教則として実用のために作られた(諸説あり)練習曲は一曲当たり2分から数分の小曲からなる曲集で
特段の情緒とか作曲にあたっての思い入れを反映しているのではないでしょうが

コルトーの演奏を聴くと次から次と色鮮やかな情景が切り替わるので「万華鏡」を回し見しているかのごとき感銘を覚えます

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高校生の頃、ピアノ教室で・・・こちらも子供では無く、大学を出て間もない先生とは友達感覚で話していた・・・普段どんなレコードを聴くかという話題になった

私は「コルトーが好きです」というと

先生は言った「あの人はダメよ、楽譜を崩しすぎて勉強にならない。ルービンシュタインをお聴きなさい」と

日本で学校で音楽を勉強された方ならごもっともな意見だと思います

ルービンシュタインは正統派、対してコルトーはお国訛りが強すぎで勉強のお手本としては不向きとの認識はあったでしょう
ただし、現代の感覚で聞き直すとルービンシュタインだってかなり「訛って」いますけどね(笑)



前回の記事で申し上げた通り、時代が降って世界が時間的に近くなると、地方の文化は混じり合い「方言」は薄くなって行き、いわゆる「インターナショナル」な状態に変わっていくのです

どうでしょうかポリーニやアシュゲナージらが活躍を始めた頃からでしょうか、一聴しただけでは演者を特定しにくくなった様に感じるのです
個々のレパートリーも広くなり、テクニックに不備などなく楽譜に忠実で流暢な演奏家は増えましたけれど、どうしたって標準化、均一化に近づいた印象は拭きれません



コルトーやド・パハマンの時代には

ショパンは良いんだけれどベートーヴェンやバッハはちょっと軽いよね

ドイツものは良いんだけど、フランスものは軽妙さが無いとねえ

そんな感想を持たれるピアニストなんていくらも居たものです





一方、指揮者に目を向けても
クナ、クリップス、ミンシュ等々の「訛り」の強い指揮者はある時を境に姿を消し
誰とは言いませんが音楽的で正確な指揮者が溢れる様になったと感じています


良いんですよ、時代の要求でしょうからあまりに田舎に引っ込んでお国もの中心のプログラムばかりの職人的指揮者・・・カイルベルト、コンビチニー、サンティニなんて好きですけどねえ・・・ではチケットが売れなくて劇場の経営に直結しますからインターナショナルなスター指揮者を時代は欲しているんです



その中でも現代の個性派であった「C・クライバー」は世間からは大人気であったけれども、変わり者すぎて腫れ物を触る様に扱われて、常任や音楽監督の仕事を長く続ける事なくそのキャリアを終えましたね


なんでしょうかねえ
突出した天才の御技を見たいと願って芸術に触れているはずなのに、いつの間にか経済と名声に流されてしまうのが社会の実情なのでしょうか


日曜のミサの帰りにはオラが街のオーケストラを聴きに行ってその後は家族で食事(欧州の夕食は22:00時スタートで開けて1;00時終了なんて昔はよくあった)を楽しむ、なんて事だけで地方オーケストラの経済が回っていた時代とは何もかも変わっているのでしょうね




「お国なまり」は体臭の様なもので、本人は自分の匂いを意識していないものです
TV番組「県民ショー」で方言の聖地を尋ねるコーナーがありましたけど

津軽弁の最もオリジナルな姿を残すと認定された五所川原の金木町にずっと住んでいるおばあちゃんは
多分、私たちが思うほどご自分が訛っていると認識はないんじゃないかな






やっぱり、可愛いですよね
このビデオの素晴らしいところは、同じ青森県内であっても城下街で政治や文化のありようと、他の地域との人的交流など地域の特徴と方言の薄まり方、残り方に言及しているところで、まさに本記事の核心を語って頂いている様です

そう言う長野県民の私も普段は全く意識ないけど、横浜に行って喋る時には

「あ、今訛ったな」とドキッとする事ありますよ



では、方言が強ければ正義か?
地方色の強い演奏はそれだけで良い演奏と言えるのか?

全然そんな事ないと思いますし、むしろ純粋に音楽としてみた場合には強いクセのない演奏の方が「クラシック名盤BEST100」なんて選抜の際には上位を占めるでしょう


曲目によっても求めるものは変わってきますしね・・・マーラー=ウィーン的?ユダヤ的?その様に捉える音楽ではないのかとも



皆さんは如何ですか?

ある曲に対して愛聴盤を考える時「お国なまり」は意識するでしょうか?


私はねえ

ラヴェルやフォーレを聴くとき、フランス的なちょっと良い香水の匂いのする、腰のラインが艶かしいお姉さんみたいな演奏と
律儀で楽譜通りにやってますよ、と言う演奏とどちらが聴きたいですか?

また、ワグナーのドロドロの愛憎劇の後ろを天国の様なオーケストレーションが流れる場面で
どんな音楽に打ちのめされたいでしょうか

他にもシベリウスやグラナドスにロシア民謡など強い訛りのある音楽が好きなので、困っちゃうんですねえ





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「お国訛り」の魅力

博多の女の子に
「あんたの事、好いとーよ」

旭川の子には
「君のこと、なーんまら好き」

って言われたい
方言て良いですよねえ


その昔は、山や川に囲まれていた地方々々においてそれぞれ特徴的な生活習慣や文化が形成され、独自の発達を遂げていた事は想像に難くありません
もちろん「言語」も又その重要な文化の一つですから「方言」は混じらず、標準化されることもなく土地に深く根付いていました

時が下って

信玄が甲州街道を、家康が東海道を整備すれば時間的な距離は縮まり

メルセデスが自動車を作りライト兄弟がエアプレーンを飛ばすに至って
現代の羽田や成田では数分に1機が世界に向けて飛び立ち、東京発の東海道新幹線は5分毎に発車しています
私の地元の電車は未だ1時間に3本くらいですけれどね


確かに便利になって結構な事ですが、文化は混じり合い言葉が標準化されることも必定です
その上、ラジオ・テレビ・ネットの普及によって加速してますね

「お婆ちゃんの時代はそんな言い方してたけど、今の若い子はあんまり使わないね」って奴です

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旭川の子です



まあ、それでも世界中で英語だけが使われる事もなく、私たちは日本語を使っているしフランス人はフランス語を使い続けています


そこで、問題が起きますね
上述の通り、人や物は動きますし電子通信で遠隔のまま会話も出来ますけど、言葉の壁が残ったままですから
そんな私も「翻訳アプリ」の吐き出す怪しい英語やフランス語でもってe-bay内のやり取りしてますが、いつか激怒されるのでは無いかと冷や冷やしています


そしてもう一つ、大きな壁は歌曲やオペラを唄う歌手の母国語でない場合に感じるヒヤヒヤです

昔はアメリカ映画の中で米国育ちの日系の女優さんが和服を着て日本人の役をやる際のヒヤヒヤ感、ありましたよね
お綺麗なんですけれどね、なんかしっくりこないなあと日本人だからこそ分かる違和感です


********** * ***********

ちょっと、恥ずかしい話なんですが

お客さんが見えて、ドボルザークの「ドゥムキー・トリオ」をかけていました
Aさんが「誰の演奏ですか?」と聞かれたので「スーク・トリオ」です。と答えました

Bさんがこの曲のCDが欲しい、何が良いかと言われ
Aさんが「ボザール・トリオ」盤が有名です、と話されており

私の中で「ボザールか、持っていないなあ」等とのんびり考えていました

後日、なんと無しに普段聞いていないCDの棚を見ていたら、なんとボザール・トリオのドゥムキーがありました


お恥ずかしい話ですが

BEAUX ARTS TRIO を ビュー アーツ トリオと読んでいたので記憶に無かったのです

日本人は音節や単語毎に音を区切る癖がついています、前後の音を組み込んで流れる様に発音する意識がないから
読めないのです
でも、何人います?
予備知識なしに「ボザール」ってすぐに読める日本人

このCDは後日Bさんに進呈する事にしたのですが、なぜ「普段聞かない棚」にあったかは次回お話ししましょう

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こいつです

************ * ************



毎週金曜日の午後にNHK-FMで「オペラの時間」と言う番組がございますでしょう
時間が合う時は楽しみに聞いているのですが、ある日放送開始時間を過ぎてしまい番組の途中から聞き始め

なんの曲か分からずに10分ほど聞いていました、どこかで聞いた事がある様な、無いような・・・

少ししたら幕間になりナレーションが入って曲名を言われた時に衝撃が走りました
ビゼーのカルメンだったのです

前回の記事で書きました通り、カルメンなら全曲ほぼソラで覚えていますから「そんな筈はない!」と

その後、収録の情報がアナウンスされて、なるほど。と思ったことを告白します
名誉の為に名前は伏せますが、日本の歌劇団の演奏会の実況録音であり指揮者も主要歌手も日本の方々でした

今日の話の流れから、フランス語の発音が引っ掛かったのかと思われるかも知れませんが実はオケの伴奏、指揮者の
解釈で曲がわかりませんでした
本当に別の曲だと思って10分くらい聞いていたのです


音楽の表現・スタイルというのは
言葉と同等かより強烈に地域や文化の違いを表しているのではいかと常々考えています



それも含めて
言葉の発音だけでなく
ラヴェルやアーンのメロディー(歌曲のこと)やモンポーやグラナドスのスペイン歌曲において
クロアザやヴァラン、スペルビアやアンヘルスを聴くときのしっくり感は比類ない様に思うのです

長く留学をして、ネイティブの発音を身につけるだけでは届かない「何か」があるのでは・・・と?


つづく





















ウクライナ国立の「カルメン」

ウクライナの情勢不安から1年が過ぎて
自分では何もできる事がないのかと思っていたこの時期です

ある朝の新聞でウクライナ国立歌劇場の引越し公演が長野であることを知り
せめてもの・・・気持ちだけですがお高い席を購入して行って来ました
と言っても、いつもの通り
2階席 最前列 中央通路の脇っていう上席が空いていたから買ったのですけれどね



多くのクラシックオペラは、スマホやネットどころかテレビも映画もない時代に作られたエンターテイメントの主役です

より多くの娯楽要素を求められていましたから、昼メロドラマや歌謡番組を想起させる場面も多くあります
オペラ以外のエンタメに事欠かない現代人にとってはある種異質な文化を感じますね

一例として「フィガロ」を見ると(CDの音だけではよく分からない)分かりますが
前半はストーリーのある物語(まあ、他愛もないメロドラマ)ですが、後半はアリアを順番に歌う歌合戦の様相を示します

また、多くの作品で舞踏会やダンスチューンのコーナーがあって盛り沢山、特にトルコなどエキゾチックな踊りが人気のようでした
今時のように簡単には海外旅行ができない当時には、オリエンタルな文化に関心があったのでしょうね

それらを前にして座り続けるのは実はそれなりの「修行」であって、退屈のあまり不覚にも居眠りとの戦いを強いられるものです


その中で、全曲を通して覚えているので絶対に眠らない鉄板の三作品があります


1・カルメン
2・ラ・ボエーム
3・カバレリア


この次のグループには

1・こうもり
2・アイーダ
3・神々
4・ファウスト

なんですけど「神々」なんか長野では絶対に掛からないので実質6曲、
まだ未体験のカバレリアとファウストも大都市での公演待ちですが、国内では難しいでしょうか


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小さな小屋の狭いピットにしては中々の編成のオケでした
1stVnで8から10丁
チェロが2本、コンバスは3本もありましたし、ホルンは4管という盤石の構え

二階席の私の所では低音は十二分のバランス、一階席でもある程度良かったのではないかと思います
(ステージ下のピットで演奏するオペラの場合、土間席で聞くと多くの場合ハイ・バランスになって腹が立つ)


オペラの実演ではいつも2つのことに感心します

1、録音と同じクオリティで聴ける

POPSのコンサートを基準に考えるととんでもない事です
音楽の流れが(テイクのやり直しの出来る)レコードを聞いているのと変わらないのですから
それも2時間もの間、何十人という演奏者、歌手が楽譜・ト書き通りに演奏出来るんですよ

それだけでもすごい事、どれだけ練習してるんだ!と頭が下がる思いです

当たり前だろ、と思ったそこの貴方・・・そうでもない時も結構あるんですよ・・・「生」だけに




2、やっぱり欧州の音は全然違う

オーディオとの音の差もそうですが、日本のオケとの音の差も随分と感じます

私はよく「発情期の猫の泣き声のよう」と表現するんですが
ヴァイオリンにしても人の声にしても、一度喉の奥で声を含んでから出すような出音の仕方に
毎回、強烈にヨーロッパの土地と文化、時間の蓄積を感じます

M・カラスやD・F・ディースカウの発声を聞くと一聴瞭然なんですけれど


一般論ですが
優秀と言われるオーディオほど、実演で聞かれる音との乖離を感じてしまう傾向があるのです

ヴァイオリンからは薄くて乾いた板の音が聴こえるはずなんですが、金属製ヴァイオリンの音になってはしないだろうか?
自分自身の家も例外でなくしっかりと見つめたいと思った


まあ、身も蓋もない話をしちゃうと録音された時点でかなりマズいのもあると思うんですが
「あの感じ」を聞き手が自分の中に感覚として持っているかどうかが一番のハードルだと思います

どのCDやレコードを聴くかの選択からが自分のオーディオの責任ですからね








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衝撃の言葉 〜 音楽・音源を「ソフト」と言う人々

私がまだオーディオをしていると言える段階でなく、駆け出しの頃の話です

実家のお隣の町に友人の会社の同僚の方が住んでいました
そのお父上が敷地内にオーディオ部屋を建てる程熱心な方で、同僚の方(息子さん)自身もその影響でオーディオに興味がお有りだと聞いていました

その後、友人の取りなしもあって
「せっかくお近くなんだから、お互いに訪問しましょう」となりました

始めに年少の私から先方にお邪魔しました
部屋は10畳ほどの「男の城」って感じで、余計な装飾も無いオーディオ一筋の室内でした

装置の詳細はここでは書きませんと言うより記憶にないので書けません
もう、30年以上前のことですし、何より評論家ごち「訪問記」などを記するほど立派な人間でないと自覚しているからです


ただ、お父さんは真空管アンプを自作されるのが趣味の方で、何台か見知らぬ部品で組まれた自作アンプがありました
スピーカーも市販品ではなかった様に思います


いくつかのレコードを聞いた後

「クラシックはあまり詳しく無いので、レコードを持参して欲しい」とのご要望があったのでお持ちしたレコードをかけていただきました
これは、覚えています

グリュミオの名演集  クライスラーの小品や熊蜂の飛行などメロディーが分かりやすい曲を集めた1枚で
外盤の入手が困難な地方都市としてはありがたいオランダ直輸入の1000円盤でした
70年頃のPHILIPS録音ですから見事な音です

お父さんは痛く感激してくださって、そこで出たのが次の言葉です

「いやあ。これはいいソフトですねえ」



現在に至るまで、オーディオをしていて最も印象深い「言葉」の一つでした
それまで、レコード(やCD)を「ソフト」と呼ぶ人に出会ってこなかったからです




ここまで読んで頂いている皆さんはどうお感じになったでしょうか?

・え? 普通 言うでしょ!
・なんか違和感あるねえ
・特に、なんとも感じません

感じ方は各々でよろしいと思いますが
齢30歳くらいの当時の私には大層な違和感があったのです
もちろん、当のお父さんに特段の意図はなく、オーディオ雑誌や仲間内で慣例的に使われる「音源=ソフト」と言う記号としての言葉を使っただけだと思います

良くありますよね、オーディオ雑誌の巻末の方に「今月の優秀録音 推薦・特選ソフト」みたいな感じの使われ方




未だに感じている違和感の原因は

「オーディオ装置=ハードウェア」の一対としての「音源=ソフトウェア」なのかしら?

スピーカーやアンプやプレーヤー、すなわち「ハードウェア」とそのシステムを構成する
オーディオで音を出すために必要な「構成要素=コンポーネント」の一つとして「音源=ソフトウェア」を捉えている?

  
   オーディオの音質を確認し調整する為に、音を出す必要があるからソフトをかけてるの?

  極端に悪い取り方をすると、そんな印象を受けるものですから違和感があったのでしょう
  実際に個人のお宅で、オーディオメーカーの配布する「デモ盤」の中の女性ヴォーカルでもかけて下さる
  場合などに出会すと???と思うこともありますよね。いや、お好きなら良いんですよ、いいんですけどね

   ご自身で発見・発掘した「魂の一枚!」をお聞かせ頂きたいものですから




繰り返しになりますが
私自身は18歳の時に、オーディオの師匠からSPからモノラル時代の歌手やヴァイオリン奏者を沢山教えてもらった中で
1人の歌手と運命的な(と勝手に思い込んでいる)出会いがありました

以来、自分にとってのオーディオの存在意義は、その歌手の歌を聞く為だけにありました

私にとって「音源」は

オーディオの「要素=element」ではなく「動機=motive」なのです


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師匠はオーディオ店主なので、こちらも何気なく

真空管を変えたい とか このカートリッジを買おうかしら と言うんですが

「何のために」

「それでどうなるの?」

と言われ、中々売ってくれない時期がありました
今になって思うと
「お前の聞きたいレコードの再生にとって、プラスになるか考えての事か?」と言うことだと思います
雑誌や仲間内の風評だけで、欲しい物をあてずっぽうで買い込んでも自身の音楽人生にとっては決してプラスにならないと言うことでしょう


何年か経って私が
「こんな事をしたい」と言うと
「お、いいセンスしてるねえ」と言って売ってくれる様になりました

私の師匠は音楽再生の目的を見失った、オーディオセット単独の「自称・音質アップ」を決して許してはくれませんでした
自分のオーディオ人生を振り返ってみても、これ以上に感謝していることはありません



当時とは違い、今ではオークションやネット通販で何でも好きな物が買えます

自分勝手なガチャガチャな事をしても、誰も叱ってくれないんです

当時の自分がそんな時代にオーディオを始めたらと考えると、これほど恐ろしいことはありません








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