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「父の音楽~指揮者スイトナーの人生」でオーディオを学ぶ

日本では2009年にNHK-BSで放送されたドキュメンタリー番組。2007年ドイツZDF/Filmkombinatで制作されている。

スイトナーさんはN響にも頻繁に客演され日本の音楽好きにも人気の指揮者だが旧体制下のドレスデンやベルリンの歌劇場で活躍したどちらかと言えば「地味」系の方。

そんなスイトナーさんの実息が製作したこのドキュメンタリーは赤裸々なプライベートの告発も含めて何となく「白鳥の歌」としての映像作品に見えて仕方がない(実際その通りだと思うが)



私は「オーディオ雑誌」は書店店頭で見かけるとつい買ってしまうのだが、文字通り書物として楽しく読ませてもらっている。
ただし、このような関連本からオーディオのヒントを授かることは無く、過去の音楽家の何気ない発言や練習風景、書物から啓示を受ける事が殆どだ。そんな会話の中でオーディオ的に興味深いものを一席。
なお、動画をWEB上に挙げる甲斐性はないので静止画で勘弁いただきたい。



場所はウィーンの音楽大学で、指揮科の生徒さんを指導している場面。
Mozartの序曲の冒頭でホルンコールに続いて弦楽のトレモロが入ってくる箇所でダメ出しが続いている。

先生曰く
ホルンの響きが消える前に弦楽が入ってしまうのが「早すぎる」と指摘している。
DSC03523.jpg手前の後姿がその時の学生。

何度かトライを繰り返すが、やっぱり弦の入りが早い。
DSC03525.jpg

DSC03526.jpg
さらに三度ほど繰り返すが、何れも先生は途中で止めてしまう。
素人の自分が聞いた限りでは、学生さんは音符の長さ通り拍を取って弦楽を入れているが、現実は室内残響の影響でホルンの響が残っているようだ。
先生は杓子拍子に拍だけで進めるのではなく、ホールの残響特性を考えながら振りなさいと言っているように感じた。

「音楽は生きているのだから、会場の状態や様々なコンデションで柔軟に対応しなさい」と教えているような。

業を煮やした生徒が、遂に口を開いて先生に詰め寄った・・・
DSC03527.jpg

そのとき先生、少しも慌てず。
DSC03533.jpg「間を取る」ということは、「楽譜に休符が書いてあるかい?」と必殺の質問返し!

生徒は答えた
DSC03534.jpg

すかさず先生はこう言った。
DSC03532.jpg

どうです、カッコいいでしょう?
「表現」が生まれる現場ってスゴイですよね。演奏家はもっともっと細かいニュアンスに入り込んでこれに取り組んでいるのですね。

先生は一点だけを明確に教えています。前の音と、続く音がカブってはいけない。
増して前の音と次の音の間に「間」を取ってもいけない。(楽譜にそう書いてないから)

この一連のやり取りは、長年の思いを後押ししてくれる貴重な一言になった。

そう、オーディオを聴く室内の「響き」をどの程度に設定するか?に対する答えだ。
レコードの中には収録時に既に会場の「響き」が含まれているので、より慎重になるべきだろうが、単に聞いてみて気持ちが良いからだけでは済まない問題のようだ。

室内の残響・反射の調整の為の対策品は数多売っているし、オーディオ雑誌やブログ等でも頻繁に取り上げられているところであるが、どこを読んでも(当たり前だが)「僕の家での正解」は書いてない。

では実際の処、何を頼りに反射板を設置したり吸音材を貼り付ければ良いのか?

その答えは何時もMozartに聞くしかないのだろう。(別にMozartに限らないが、音(正解)はレコードの中にあるという意味で)
楽譜に休符が無いのなら「間」を空けるべきでは無い、というスイトナーさんの指摘は「好みの音」にする為に「感覚」を頼りにオーディオを捉えてはいけないという考えの背中を力強く押してくれた。

好き嫌いの前に押さえなくてはならない。「べからず」はどの世界にも存在するのだ。
時々質問される僕の口癖「自分の好みの音が無い」とはどういう意味か?に上手い答えはないけれど、上述したような事なんだと思う。
確かにこれは気持ちの問題だけかも知れぬ。好きだからではなく、そうあるべき。と思うという違いだけ。

ただし、個々の好みは無くとも「べからず=必然」には個人差があるから、その人の演奏。や、その人の音がよりハッキリと浮かび上がってくるのだとも思っている。




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今更ながら?の ヴィヴァルディ 「四季」

遅く起きた朝の事、何気なくTVをつけたらNHK-BSで何やら演奏会を放送していたので、まだ起き切れていないボケた頭でこれまた何となく見ていた。

ステージ上には10人少々。煌く様なスピードと切れ込みの新解釈によるバロックのようだ。

始めは曲目すら分からなかったのだが、それがヴィヴァルディの「四季」だと分かり始めた頃にはその演奏に釘付けになっていた。
しかし、番組を途中から見たので演奏者が誰なのかも知る事はできなかった。


ウワサには聞いていた。
若い演奏家が新解釈でやったバロックは面白いよって。でも、なんでも自分の耳で聞いて見なけりゃ分からないものだ。

それで、幾つかCDを購入して自室の装置で聞くようになった。
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1990年頃からこのムーヴメントが盛んになったようで、此処に挙げた3枚だけを取り上げても其々に特徴が出ていて愉しい。

比較的流れにのってハーモニーも重厚なアルモニコ(写真左)

緩急もダイナニズムもエッジーで直線的に切れ込むカルミニョーラ(写真上)

舞う様に優雅な一面も持ち合わせるビオンティ(写真右)

従来の演奏では内声部として扱われていた(かのような)旋律に対しても、これを独立させて重み付けをし、改めてポリフォニー的アプローチを展開する場面が多いように思う。がいかがだろうか。


さて、録音にも少し触れておこう。
僕らの青春世代はアイドル全盛時代でレコードを何枚も買ったけれど、ソニー・ミュージックの脳ミソに凍みるような音には辟易としたものだ。

そのトラウマを覆してソニー・クラシクスのカルミニョーラ盤の確固たるステージの描写が素晴らしいと思う。

その点ではアルモニコ盤も広々とした空間に文句の付け様は無いが、ヴァイオリンが少し金属的に過ぎるか?
まあ、バロックヴァイオリンの響きとしてどの辺りまで金属的で良いのかは、私があれこれ言っても仕方がないので、これも優秀な録音だと言えると思う。

対して、ビオンティ盤だけがとても「フワリ」とした音場で異質な印象。ハテナと思ってクレジットを見たらフランス盤だった。
CDの場合はどうだろう?
LPならばクラブ・フランスやディスコフィル・フランセのステレオ録音は独特な感触を持っていて直ぐに「違い」が判ったものだが、CDの時代でも仏国はやっぱり仏国なのだろうか・・・



先日、You Tubeをサーフィンしていたらありましたよ! あのNHK-BSの音源が。
演奏は上に挙げた内の一人でカルミニョーラでした。





これらのパート以外にもありますが、版権は大丈夫かな?
興味ある方はお早めに。 日本でのライブと思いますがCDでの演奏よりも躍動的で良いかも。






30年ぶりに買えたレコード イ・ムジチ 小品集

二十歳の頃に購入し、「擦り切れるほど」聴いた1枚のレコードがある。

内容は決して有名な曲でもない、勿論高額な盤でもなかった。恐らく、中古で500円程度で買ったのだと思う。

でも自分にとっての影響力は強大だった。

それはイ・ムジチ合奏団の演奏で、タイトル名が「イ・ムジチ」という当楽団ご紹介レコードのような軽い乗りの1枚だ。

それまでは、クラシック大辞典に載っているような、BeethovenとかBach、Mozartを当たり前のように気難しい顔をして、気難しい音楽の方がエライんだ的な思い込みで聞いていたのだと思う。(実際に素晴らしい曲が沢山あることに間違いはないが)

そんな中でこの「イ・ムジチ」を聞いたことで「なんだ、クラシックにも愉しくて良い曲あるじゃん」と思ったわけ。
このレコードのおかげで、その後の音楽の嗜好が(ある程度)定まったと思う。つまり、仏やイベリア半島、ロシアなんかのマイノリティな地域の音楽の割合がとっても多くなった。

もう30年も前に買った日本PHILIPS盤をずっと聞いてきたけれど、この度晴れて初版のプレスを買うことが出来た。

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Respighi リュートの為の古風な舞曲とアリア 第三組曲

様式は16世紀の舞曲だけれどレスピーギは20世紀を生きた人。古典のマントを羽織った粋人てな感じが本来のルネッサンスや古典曲を聞くよりも現代人の感覚に会っているのかとも思う。
イタリアの古典はいいよねえ、と教えられた。


Britten シンプル・シンフォニー

ピチカートの魅力に溢れた第二楽章を中心に爽やかさと古典的規律を感じる。
その後のピチカート好きを決定付けた。
自分的にこのスタイルではプロコフィエフの古典交響曲と双璧。単に好きなだけか・・・


最後にBarber アダージオ

この曲は「のだめ」で
飛行機に乗れない千秋に対して(ミルヒーから貰った時計を使って)のだめが催眠術で飛行機嫌いを克服させる場面で非常に印象的な使われ方をした。

千秋のトラウマによる呪縛からの開放を示す描写において、窓から差し込む神秘的な陽の明かりと共にこの曲が流れてくる。

千秋はその後、無事飛行機で北海道へ旅行してのだめがかけたもう一つの催眠術にしたがって「かに」をしこたま買い込んだ。




you tubeには沢山の同曲の動画があったけれど、この演奏は別格だった。






JBL 初の体験記 昔の自分に出会う

今日で2週連続の訪問記の記事も最終回。

Mさんのお宅では引き続きWE-555を中心としたモノシステムを聞かせて頂いた。
やはりJazzだが米)コロムビアの六つ目や二つ目盤がかかる。

Jazzについては全くの門外漢だし、製作側の意図が予期できないので音の印象も掴み難いのだけれどさすがにソフトとハードの帯域がマッチしてか、実に地に足を付けたプレイバックだった。

装置の音がどうした、どうだったという話はあちこちに溢れているがハードとソフトとパックになって語られる事が少なく、せっかくの機会なのに単に音の印象、その大抵は高低のバランスのことのみが語られるだけであることを大変残念に思う。
そして、今回の感想も僕がJazzに不明な為に不甲斐ないレポートであって申し訳ない。高名なディスクを掛けてもらったのかもしれないがそれを理解できず活かせてもいないのだから。



さて、お邪魔した2件の経験から共通して感じたことを最後に挙げておこう。

Mさんのお宅では、JBLを使ったステレオシステムと555のモノラルシステムで相似形の音楽を奏でていた。
人間は機械に先んじると言う自身の理論に従えば、至極当然の因果だが改めて人さまの家で確認するとこれはちょっと感動的だった。
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時間を遡って1週間前。Yさんのお宅でのこと。

Yさんとは30年来のお付き合いだから、装置の変遷も音の変わりようも時系列で知っている。

しかし先週聞いた音は、30年前に聞いた当時のままの音楽を僕の頭の中に響かせてくれた。
あまりに懐かしくなって、その当時私たちの間で一押しのレコードだった「ボベスコの小品集」をお願いして聞かせて頂いた。

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ラフマニノフの「ヴォカリーズ」を始めて聞いた時の衝撃も、ほんの昨日のことのように思える。
フォーレの「アンダンテ」はより深く心に語りかけてくれた。
特段オリジナル盤とか高価な盤ではないが今でも大切な1枚。


その感動を伝えたくて「あの頃と音楽は一緒ですね、すごい事です」と言ってしまった。
Yさんはその台詞を聞いて、30年の期間に注いだエネルギーや掛けたコストをそんな一言で消し去られてはタマラン。といった様子で「それじゃ、実も蓋もないじゃない。音はずっと良くなってるでしょう?」と仰った。

それは勿論その通りです。とお答えした。
今日の音は素晴らしく間違いなく過去最高のプレイバックだと思った。
しかし、「音楽のカタチ」だけは30年前と些かも変わっていなかったことに感動したのは、これも偽りの無い事実なのだ。




JBL初めての体験記 その2

では、Mさん宅の訪問記の続きを書いていこう。

先に少しこのお宅の情報を述べると、ステレオシステムのスピーカーはJBL製の3Wayで、

低域用はバックロードの箱に150-4C型。
中域は375型のグレータイプを励磁式に改造したもの。
高域は075型をダブルで使用している。


モノラルシステムは同じく3Wayで

低域がJensen製の18インチ
中域はWE-555型に31型のホーン
高域にはWE-596か597タイプのものだと思われる。

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そして、自分としては初体験がもう一つ。
スピーカーを置いてある部分の床面は地面から立ち上げているそうだ。
しかも、正面の壁にはレンガの内装材が一面を覆っている。

自宅の構造とは全く正反対の室内環境であるわけで、この辺りの影響が音のカタチにどのように貢献しているのかがとても興味深く聞かせていただいた。


Mさんは1960-70年頃のJazzをメインでお聞きのようでそちらの曲が多く、殆ど(全て?)がオンマイクのモノラル→ステレオ振り分け録音でステージというか音の姿を捉えるのは難しく私には聞いた感想を申し上げる事はできないが、終盤にお願いしてミケランジェリのドビッシーを聞かせて頂いた。

やっぱり、綺麗に抜けて明るいですね。
自宅でも同じレコードを時々聴くけれど、ハンブルグのスタインウェイというかむしろべヒシュタインをバックハウスが弾いているような沈み方を聞かせる。
対して、こちらのピアノはニューヨークのスタインウェイの輝きがあり、微少なニュアンスも出ている。(もち調律・調整次第だけれど)

フロント側のTSD-15 WV-2 V69のラインは以前にEurodynを使っていたときと全く一緒なので、この明るさは先週のYさん宅の印象を裏付けるなあ。とボンヤリ考えながら聞いていた。

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Mさんはオーディオや音楽に「癒し」を求めておられるのだろうと感じました。全体的に音量は控えめで(我が家も相当控えめなのでこの点は共通)前へ前へという音楽のでしゃばり方はありません。

全体的に室内の響きは予想に反してデットな印象があり、我が家の方が構造的には余程吸音面が多いはずなのにこれは面白い結果だと思って何度も室内をグルグル見渡したが特別な理由は見つからなかった。

結局のところシステムの入口(ソフト)から出口(部屋)までのトータルな相互関係と、そして何より使う人が何を求めるかが音楽の響き方を決めるのだと思う。この「想い」は反射板や吸音材よりも強く作用する「アクセサリー」だ!って言ってもいいかも。


ステレオ装置の最後にdcs(かな?)のプレーヤーで幾つかSACDとCDを聞かせてもらった。
SACDはさすがに微少信号も出るし静寂感はハンパないけれど「地に足が着いて居ない感」がもう少しでも改善されるといいのにと、これは何時も思う印象と一緒。

Mさんは『たとえ500円で買った中古LPにすら追いつかない』と言っていたが、WV-2で聞いている人に言われたらdcsが可哀想だ。相手が悪すぎる。

この後、WEを中心としたモノラルを聞かせて頂いた。






kaorin27 「初めてのJBL体験記」 その1

自分にとっての、2大疎遠スピーカーメーカーは何と言っても「TANNOY」と「JBL」に止めをさす。
それでもⅢLZは1週間ほど(直ぐに人手に渡った)家にあって少し聞いた。でもそれだけで「TANNOYを聞いた」などとは口が裂けても言えない。
一方JBLも勿論方々で聞いた経験は少ないくないけれど、それで「オレはJBLを聞いた事がある」なんて大手を振って宣言できるようなレヴェルでは全く無かった。
すなわち、何処で何の曲を聞いてどんな印象を持ったか。を記憶していないのだと思う。


さて、今日はつい一昨日の話。
一月ほど前に知り合ったMさんと仰る方のお宅へお邪魔した件を述べたいと思う。


ただその前に話しを少し戻して昨日記事にしたYさん宅の続きを少々。
そちらに掲載した写真の中央下にある、JBLのD130と175DLHで50年代のモノラルを聞かせて頂いた。

一聴して「明るい」。 何かと比べてではなくて楽器や声を通じて部屋の空気が明るくなる。
しかも、相当微少な信号まで振幅出来ている様でホールトーンやピアノの不響和音まで明晰になる。

ビックリしたなーもう。これなら長い間オーディオ界の玉座にあることが納得の王者の気品が辺りを払うような風格。

帰り際に2Wayのクロスを聞いたら、2500Hz辺りだといわれた。
そーか、自分では昔にWE728Bと713Cで組んだ2Wayで2000Hzクロスを採っていた。その時のタッチに似ていたんだなあの音のカタチは。で、合点がいった。
長いこと400~500Hzクロスのスピーカーと一緒に暮らしてきたから、郷愁と新鮮さがあったのだ。
家に帰りついてから、同じようなシステムのシュミレーションをしてみた。 でも、お金がないからすぐ止めた。



では、改めて一昨日の事に話を戻そう。

先月我が家へ起こし頂いて、今度はこちらからお邪魔した。

Mさんは、アメリカのオーディオを長くされて来たが、最近になってフロントエンドからドンドンとドイツ風邪にかかっていると言う特徴的な経緯を持っている。

PICT0451.jpg
Neumannの可愛らしいPA-2プレーヤーや最近になってWV-2フォノアンプも導入された。
WV-2アンプは最近では随分と高額になっていると思う。
私が昔に購入した時に比べると、何倍も「高級機」になっているそうだ。

このほかにもTelefunkenのV69アンプなどをお持ちで、電気系はドイツ製がメインになっているとのこと。

そして、お使いのスピーカーがJBLを中心とした3Wayである。

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つまり2週続けての「JBL」体験記というわけ。
今日は長くなってしまったので、こちらのお宅の詳細は次回に譲ることにしよう。






人さまの家の音が良くなると言う事

これは大きな問題だ。
これは大きな問題だ。ニ度繰り返す

僕の若い頃は考え無しでお節介だったから、他のお宅へお邪魔した際に「ああすれば音が良くなるんじゃないかな?」なんてことをずうずうしくもご開陳に及んでいた。
長じて自分の「良い音」とほかの人の「良い音」は違う。ということに気付いて以降そんなお節介は止まった。

しかし、今になって思い返してみると
自分の家の方が「良い音」で鳴っているという思い上がりが心の底にあっての行動だったように思う。(恥ずかしい限りだが多くの人がそんな勘違いをする時期があるのじゃないかな?)
ただし、天地神明に誓えることだけれど、本心から「良い音で聴いてもらいたい」という邪推のない動機でお節介をしていた事だけは胸を張って言える。


さて、今日の話題は先週の週末の事。
何度かこのブログに登場いただいているYさんにお孫さんが誕生したりで久しぶりにゆっくりお邪魔する機会があった。

実は、Yさんのオーディオはこの1年ほどで激流のような変化を見せている。

聞いただけでも、ウーハーを励磁型にして
WE555のホーンをWE3型朝顔ホーンにして
ネットワークを巨大なコイルやレンガのようなコンデンサがムキダシの業務用のものにしたり
RCAのオルソン教授が係わった時代のアンプを導入したり・・・

こうした一連の変更が一段落して落ち着いてきたということだったが。

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暗い中で携帯での撮影で失礼します。




もしかしたら、これはヤバイかもしれない。一聴してそう感じた。
機材を変更した等といのは、どうでも良いことなのだ。
音楽がスピーカーを離れて、自らの意思で躍動しているではないか。

僕は何度も書いているように装置の音色を聴くようなことはない、いつも「音楽の姿」を聞いているだけ。

「これは世間で言われるところのWEの音の範疇を超えていますね。」このように感想を伝えるのがやっとだった。
誇張でもなんでもなく、
絶好調だったころのEurodyn(パーマネント)と極めて似た音楽の提示のカタチだった。

やっぱりそうだったんだ。
ピックアップが正しく拾って、アンプが律儀に増幅して、スピーカーが間違いなく振幅している装置をきくと、異なるスピーカーだってビックリするほど同じ音に聴こえる。
その想いを確信させてくれる立派なプレイバックだった。

マニアの人の話や雑誌の記事では、機材を変えると「ここが違う」「あそこも違う」と音の違いばかりを聞き分ける事をなぜかエライとする風潮があるけれど、いつも巨大な違和感がある。(まあ、ジャーナリズムはビジネスとして仕方の無い部分もあるだろうけど)

同じレコードで比較試聴するのならば、出る音は「違わない」方が歪(つまり機械の不備)が少ないのは証明の必要の無い極めて単純な理屈ではないか?



さて、余計な話は置いておいて、このように人さまの家の音が本当に良くなってしまった時に、僕は心から喜べたかが「大きな」問題なのだ。

若い頃はあれほど「音を良くしてあげるよ」なんてふざけたお節介をしていたのに。
本当に良い音を聴いてしまったら、心はチジに乱れ・・・なのだ。

これは中々に出来ない経験だった。
素直に「やられたなあ、悔しかった。でもいいもん聴かせてもらった、うちも頑張らなきゃ」と書いて今日の報告は、おしまい。







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